センテンス・オータム

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背番号「15」ヒストリー ≪工藤幹夫≫

工藤幹夫、逝く....

 

 

突然の訃報に言葉を失った。今月13日、肝不全で死去。享年55。

1982年に20勝で最多勝と、最優秀勝率を獲得。プロ通算30勝だから、半数以上の勝利数をこの年に稼いだことになる。

おもえば木田勇に坂巻明、野手なら岩井隆之‥と、あの80年代前半頃のハムには、瞬間的な煌きを放った選手が結構いた。ゆえに、彼らを実際に“目撃”していない私などは興味をかき立てられるのだが、今日は動画サービスで、わずかながらも「像」をうかがい知れる、便利な時代になった(本当は違法なのだろうが)

 

 

1981年、巨人との「後楽園決戦」でハムの全勝利数にあたる2勝をあげた工藤。ともに中継ぎで登板したあとに、味方が逆転をし、白星が転がり込んできた。今でいうラッキーボーイ存在。勝てば王手の第4戦、ノリに乗っていた背番号「15」工藤を、大沢監督は温存させた。

連投(1~3戦)の負担を考慮してのことだろうが、のちに語り継がれる翌年の「伝説のプレーオフであれだけの無茶をさせた指揮官だ。なぜ、このときにかぎって‥と悔恨する、オールドファンも少なからずいるのではないか。

‥第4戦は工藤を出さぬまま、けっきょく試合終盤に巨人打線の猛攻を食らって、流れが完全に相手に傾いた。そのままシリーズを一気呵成で勝ち抜いた巨人とは、以後当たったシリーズで一度も勝てていない。

 

 

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「伝説のプレーオフ」とは、開幕前に右手小指を骨折してしまい、登板不可能と囁かれていたなかで、第1戦の先発をはたした大沢流かく乱戦術。「奇襲」とも云われた有名な逸話である。

むろん、実際に骨は折れていたのだが、ドアノブにぶつけたのは表向きで、実は酔っ払いとの喧嘩が原因であるとか、様々な噂が飛び交っていて、その理由は定かではない。

誰もが予想していなかった工藤の先発で、工藤公康高橋一三(相手の西武の先発が高橋直樹のマッチアップだと、試合直前まで思い込んでいた報道関係者もいたという、笑いバナシもあったほど。

 

 

7回途中まで無失点の工藤幹を代えて、江夏豊にスイッチ。この絶対守護神に全幅の信頼を寄せていたからであるが、打たれて、試合に負けた。なのに、3日後の試合では工藤を完投させている。おかげでプレーオフ唯一の勝利をハムはあげられたのだけど、すでに22歳の若きエースの右腕は悲鳴をあげていた‥。

仮に、ハムがプレーオフを勝ち進んだとしても、工藤の日本シリーズでの登板は叶わなかっただろう。きっと、あの日“すべて”を出しつくしていたのだから。チームの勝利のために、監督からかけられた期待に応えるために....

 

 

「未来」に興味はない。あるのは、目先の一勝だけだ。

‥大沢氏だけでなく、当時はそうした監督は各球団に大勢いらしたと思うが、それにしたって工藤のケースは無謀である。いくら本人が投げたいと云ったとしても、完治とは程遠い状態にあった工藤を、投げぬよう諭すのもまた、監督の仕事であったと感じるのだ。

先発、抑えにフル回転させられた木田勇といい、工藤幹夫といい‥‥ずいぶんと若い才能を潰されてしまった。これが「投手出身」の監督であったなら、少しは違ったのだろうか。

 

 


1981 工藤幹夫 1 日本シリーズ  原辰徳にホームラン被弾

 

 

動画を視て、あらためて気づいたが、サイドスローの投手で、これだけ速い球を放る投手は、今いないのではいか。‥しいていうなら同じ20勝投手となった斎藤雅樹(元巨人)タイプか。

当時のスピードガンがどこまで正確なのか判らないけれども、ゆうに140キロ台後半は計測していそうな速さ。横手からだと、打者はよけいに速く見えたかもしれない。

日本シリーズの巨人戦2勝で自信をつかんだとされ、翌年の大飛躍につなげた。

≪文中敬称略≫