センテンス・オータム

ディープ・マニアック・鋭く「DMS」 様々なアレについて... (シーズン中は野球ネタ多し)

オバンドーよりデカかった男

ノリに乗っている「センテンススプリング」だけは、毎週欠かせない。今はシーズン中ということもあり(勝手に兄弟を名乗っている)ここも、野球ネタが大半を占めているけれど、いずれはさらに“文春色”を強めていこうと思う。

 

 

先日の週刊文春のフォトコーナーに「横浜大洋ホエールズ」を取り上げたものがあった。題して【三浦大輔が見たWの時代】。なんでも当時のユニフォームを、今年復刻させたとかで(6/15~6/16のハム戦でも着用予定)、ホエールズ唯一の生き残り戦士である三浦投手の、若き日の思い出話などもあった。

帽子に「W」の一字‥‥。あの濃紺色のユニフォームは高校野球のチームみたいで、かなりシンプルなデザインだったが、なかなか良かった。いかにも弱小‥もとい、いかにも“タイヨウ”という、唯一無二な感じがして。

同コーナーには、往年の名選手も、三浦とともに掲載されている。遠藤一彦に齊藤明雄、高木豊屋鋪要‥‥。筆者がちょうどプロ野球を見始めたころに、一線で活躍していた選手たち。ベイファンではない私も、おもわず感慨に浸ってしまう。

 

そこには登場してこなかったが、当時の大洋球団の特色として「有能な外国人が多い」 ‥そんなイメージもあった。野球界では知らぬ者がいない、渉外担当の牛込惟浩氏の“眼力”によるものも大きかったと思う。

なかでも氏の「最高傑作」‥と云っていいのかどうかは、私も判らないけれど、カルロス・ポンセという助っ人が印象深い。髭に特徴があって、当時流行っていたゲームになぞらえて、ファンから「マリオ」なんて呼ばれたりもしていた、右打ちの強打者。

アベレージヒッターのパチョレックは、ちっとも怖くない。対「W」においては、ポンセこそが、もっとも警戒する必要があった。‥‥「ファミスタ」の話である。

 

先日来日したグレン・ブラッグスも、牛込氏が見出したひとり。実働時間が短かったのにもかかわらず、野球ファンの記憶にいつまでもあるのは、乱闘シーンでも大活躍?していたからだろう。死球で津野浩を追っかけまわし、あるときは与田剛をぶん殴る‥‥。ひょっとしたら中日ファンは、彼のことが大嫌いかもしれない。

 

 

記憶にも記録にも残る外国人選手を日本へ連れてきた牛込氏が、今年4月、敗血症のため亡くなった。79歳だった。‥2016年は、まだ半年程度しか過ぎていないのに、天に旅立った球界関係者がわりと多い。

 

V9時代の巨人で、ONの後の5番を打った吉田勝豊‥‥1982年に20勝をあげて、チームの後期優勝に一役買った工藤幹夫‥‥そして、巨人・ロッテで活躍し、のちに監督にもなった山本功児‥。

 

功児氏にかんしては、生前、筆者は至近距離で目撃したことがある。東京ドームでアルバイトをしていた頃、選手が練習で使用する防球ネットや用具類の片付けもさせてもらっていた。これは本当に幸運は役回りだった。選手を間近に感じられて、当時ファイターズで主軸を務めていた片岡篤史シャーマン・オバンドー。両者並んで打撃練習を行っている姿を見て、仕事そっちのけで感動していたのを思い出す。

 

ともに素晴らしいガタイの持ち主で、とりわけオバンドーは、身長2メートル近くあったものだから「破壊力満点」といった感じ。‥ただ、その彼よりも、私が“デカい”と感じたのが、当時マリーンズの監督だった、功児氏なのである。

 

名鑑によると、187センチの95キロ。当然、オバンドーより大きいわけないのだが、なんだろう‥‥。“山本監督”には、凄まじい「威圧感」を感じた。横にも大きくて、しかし、それは太っているのではなく、レスラーごとくな、実に均整のとれた筋肉を携えていたのだ。圧倒的な存在感、身にまとうオーラ‥‥。近くにいて、私があれだけビビッてしまったのは、後にも先にも山本監督、ただ一人である。

 

 

カルビー プロ野球カード 激戦!快進撃シリーズ 753 山本 功児 [巨人]

Amazon.jpより

 

昨年のドラフト特番で、闘病中の氏をテレビで見かけた。さすがに幾分痩せたように感じたが、マリーンズ時代同様に、生気は熱く漲っていた。野球界のために、もちろん、今年ベイスターズに入団した息子のためにも、病に打ち勝ってくれてるものとばかり思っていたが‥。

 

プロ野球の発展に尽力してくれた故人へ、謹んで哀悼の意を表する。

 

週刊文春 5月19日号[雑誌]