オリンピックが始まると、きまって鬱になる....
期間中、国中が「五輪一色」となるのそうだが、この点でいえばワールドカップや野球のWBCも一緒だ。しかし、サッカーや野球は団体競技である。オリンピックほど“個人”が注目される全世界的なイベントは、他にないだろう(むろん五輪にも団体種目はあるけれど)。
国中の人々が、その一個人を応援する様子を見て、私は辟易するのだ。敵は、おそらく国内にはいない‥‥日本人のほぼ全員が、メダルを取ってもらうようにと、祈りをささげている。たまたま同じ国に生まれたという、ただそれだけの理由で。
こういった視線は、サッカーでは少なくとも“一人”には向けられていないし、筆者が好きな野球でも、たとえば大谷翔平なら‥アンチもそれ相応に存在していると思う。
国民の期待や希望を一身に集め、まるで我が事のように、もたらされたその結果に対して一喜一憂するオリンピックは、やはり“別格”と云わざるをえない。
会社にいて、私は何をもたらしているのだ。私の働きで、誰か喜んでくれる人がいるのか。
オリンピックが始まると、途端になんだか自分が無意味でちっぽけな存在に思えてきて、今の仕事など辞めたくなる。
‥分かってる。そんなのは私だけではないし、仕事をしているのも所詮、自分の生活のためだ。鬱気味になるのも、一時的なもの‥。
しかし、分かっていながら、国を背負って“闘っている”彼らと、それに熱い眼差しを向ける人々を連日みていると、己の「存在価値」をなんとなくに考えてしまう。
かつての首相が『一人の生命は地球より重い』と口にし、喝采を浴びたことがあった。それは私のような人間にも、云えることなのだろうか‥‥。正直、あまり自信はない。
もし五輪の選手と私が人質として捕らわれていて、犯人が金銭と引き換えにどちらか一人を解放するとなったら、当然のごとく国民は前者の方を望むだろう。尊い人の生命にも、かなしいかな「格」は必ず存在してしまう。
‥こうしたくだらない妄想をさせ、心を陰鬱にさせる「五輪期間」は、どうも苦手だ。4年後に控える東京開催のときは、一体どうなってしまうのだろう。今から、不安は尽きない。