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【《ガチ》田中賢介で見る人生訓&(秘)トリビア】エースのやきう日誌 《2019年9月28日版》

田中賢介、1499安打でフィニッシュ........

 

 

こうなってくると9月某日、センター前に抜けようかという当たりを源田壮亮に好捕されたあの一打や、福岡でリプレイ検証のすえ当初の内野安打が「アウト」に変わったあの判定が、いかにも悔やまれてしまう。‥まぁ、これを言いだしたらキリがないのだけれども。

 

惜しくも1500本に届かなかったが、それでも、よくぞここまでの選手になってくれたというのが率直な感想である。『一番の思い出』として挙げていた、2006年の日本一は田中賢がレギュラーをつかんだ年‥。このとき7年目の25歳で、下積み期間が長かったから想いは余計かもしれない。

 

今考えるとゾッとする。その7年目を迎える“ブレイク前夜”のオフの出来事だ。

阪神タイガースとのトレード話を、たしか新聞紙上で目にしたのである。まだ“ウワサ”の段階ではあったが、交換する具体的な選手名まで挙がっていたから、両球団で実際にそういった交渉がなされていた可能性はある。ところが成立間際になって、田中賢の将来性にかけていた当時のトレイ・ヒルマン監督が待ったをかけたという‥そんなエピソード。

 

むろん、それらの新聞記事すべてを鵜呑みにするわけにもいかないが、わりと信憑性は高かったように思う。‥だとすれば、ヒルマン氏の大ファインプレー。以後、常勝軍団となったファイターズに、田中賢は絶対的に欠かせない存在となったのだから。

実、この頃のファイターズには『7年目の覚醒説』というのがあった。03年の高橋信二、04年の小田智之、05年の森本稀哲‥‥。いずれもプロ入り7年目に一軍で頭角を現してきた選手。これに06年、25の齢の田中賢介も続いたことになる。ちょうど03年から監督に就任したヒルマン氏の頭の片隅に、やはり「7年目のケンスケ」がチラついていた‥のかどうか。

 

同年、初めて規定打席に達し打率3割をマーク。俗に言う「ブレーク」を果たした。しかし、打撃センスの良さにはもともと定評があり、長年課題とされていたのは、むしろ守備の方。とりわけスローイングに難があった。だから、その時代を観てきた者からすると、いつの間にかセカンドの位置に定着し、以後、ゴールデングラブ賞を受賞できるまでになった守備力の向上を、ただ驚くのである。

 

なぜ、短期間であれほど急激に上達したのか――

 

考えられるのは現役時代、同じ二塁手で無失策記録もつくった、白井一幸氏の存在。氏が内野守備コーチを担ったのが、この年である。‥何の世界、どんな分野でも一緒だと思うが、出会うヒトによって、その後の人生が大きく左右する。ヒルマン氏ともども、田中賢には良いように作用した。 もし万が一、あのときタイガースに行っていたら、きっと今日の野球人生は描けなかったのではないか。分からない。

 

打撃は「師匠」より断然上

メンタル・コーチング 潜在能力を最高に発揮させるたったひとつの方法

 

ためしに2003年版の球団オフィシャルガイドブック、田中賢介の項を一部分抜粋してみる.......

 

若年寄のような雰囲気から脱皮し、すべてのプレーに22歳のはじけるような若さをもうそろそろ叩きつけて欲しい

 

『もうそろそろ』そう念を押されているように、こうしたコトを書かれているのが、実は一度や二度ではない。10代20代のころから、今の、あの「ケンスケ」のままというか‥‥言われてみると、たしかに“若者らしくない”面が彼にはあった。それが、当時の球団スタッフ方には甚く、物足りなく映ったのだろう。もっとオモテに出していけ、と。

 

それで数字を出していれば、何も言われなかったはず。成績を残していない者に対しては、つくづく厳しい世界だ。「姿勢」や本人の「性格」の部分まで突かれてしまう。もちろん書いた人に悪意とかはなく、なかなか突き抜けられなかった彼を“もどかしい”想いで、ずっと見ていたからに違いないが。

 

一軍に定着して、そういった声も自然と聴かれなくなった。けっきょく、20年に亘ったプロ野球生活において終生、彼は「田中賢介」を貫き通したように思う。決定的に変わったのは、巧くなった守り‥そして、より多くの人たちから愛されるようになったことではないか。

 

一個人的にも06年の日本シリーズで記録をつくったバント職人ぶり、玄人受けしそうな、やはり“かなり渋めの”ケンスケが好きだった。

 

 

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