まさかここで訃報に関するものを連続して書くことになるとは....
阪急・日本ハムで監督を歴任された上田利治氏が1日、肺炎のため死去した。享年80。
名将“上さん”についてはこれまで色んなところで語ってきているし、おそらく皆さんの方が詳しいと思うので、あらためて触れることもないのだが、せっかくだから日ハム時代の思い出について少々‥。
上田政権は5年にわたった。筆者のちょうど学生時代にあたり、いわば“青春ド真ん中”。しかしハッキリ言って、あまり良い思い出はない。この時代からファイターズファンでいた者は、ほとんど皆そうなのではないか。
前半戦終了時、2位に8ゲーム差もつけながら、西武に逆転優勝されてしまった1998年などが顕著な例で、一度あげて“落とす”パターンが、数シーズン見られた。‥ありきたりだが、やはり「天国から地獄へ」といった表現の仕方がもっとも相応しいだろう。
正直、これは質が悪い。ファンにとっていちばん精神的に堪える。だったら最初から「弱い」ままでいた方が、ファンのダメージ少なくて済むのだけれど、なまじ優勝争いなんかするものだから、1シーズンが終わったあとの失望感はハンパない。イメージ的には最終回までリードしながら、土壇場で逆転満塁ホームランを喰らったときの、あの感覚と似ている。
どうしてあのとき‥なんであの選手を‥‥次の年を迎えるくらいまで、そんなふうにしていつまでも私たちを引きずらせた「上田ハム」は、また別の意味で“暗黒”だった。
だが、今振り返ってみると、わずかな時間とはいえ「強い日本ハム」を拝めたのもまた紛れもない事実であり、私にとって生まれて初めての“体験”といってもよかった。
縁もゆかりもなく、なおかつ弱い。東京の球団の監督を引き受けたのは、上さんなりの意地があったのではないか。私はそう推測する。「西本遺産」で黄金期を築いたといわれる阪急時代。だから、自分の手でイチからチームをつくりあげてみたかった‥‥。
監督就任早々、初ゲンコツを喰らわせたのが西浦克拓だったと記憶している。この時期に上さんが辛抱強く起用していたのが当時の若手、西浦であり、上田佳範、井出竜也といった辺りの面々。これまた上田ハムを象徴するかのごとく、一瞬の輝きを放った選手たちだ。モロさも存分に見せてくれたが、ゲームに勝つことだけがすべてじゃない、「使いながら育てる」‥あらたな愉しみ方、選手の見守り方を、上さんは我々に教示してくれた。
選手たちの間で、悪くいう者はいないという。これも上さんの人徳や野球観によるものだろうが、私の記憶では元選手で一名、いた。金石昭人である。
家族の宗教問題で、あろうことか指揮官自ら戦列を離れてしまったのは1996年、9月の出来事。『チームの雰囲気はよかったのに、あれが完全に水をさしてしまった』‥たしか、そんなような発言をしていた。
金石の言い分も解らなくもない。が、V逸したのは、あながちそれだけが原因でもない。オリックスと優勝争いを繰り広げていた大事な時期だっただけに“私情”を持ち込んだ上さんがやり玉にあげられるケースは多々見られるのだけど、8月の決戦で連敗を喫するなど、チームの勢いはすでに失速していた。首位攻防といえば聴こえはいいものの、あの9月の時点でもオリックスとのゲーム差はだいぶあったのだ。上さんの名誉のためにも、ここは誤解しないでもらいたい。
様々な心労もあって、いずれ本業にも支障が生じてしまう。だから、身を引いた。
伝説の日本シリーズ、1時間19分の猛抗議。本来、納得ゆくまで決して引き下がらない上さんの心中‥察するにあまりある。退団が確実視されていた同年オフ、それでもちゃんと還ってきてくれた。上さんとは、そういう男である。
故人の冥福を祈りたい
◇ 【書評】 知将 上田利治 -千勝監督のリーダー学-: 北海道日本ハムファイターズ 英雄列伝
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