「現役ドラフト導入して!」そんなサンスポの記事.......
今の選手は恵まれている。FAで好きなチームに移籍でき、球団によってはFAを待たずに好きなタイミングで海を渡ることすら容認される時代。‥長年昭和のプロ野球を研究し続けてきた筆者は、とりわけ逆指名または希望枠を行使して自分が希望するチームに入った選手に対しては、FA権なぞ与えなくても良いと思っていたくらいのクチだ。
とはいえ、FAを取得するのにも、メジャー移籍するにしても“資格”が必要だったり、今いるチームの関係者方を納得させるだけの活躍を、ある程度はしなければならない。そうなると「出場機会」というのは、やはり選手たちにとって死活問題となってくるわけで‥‥。
どこまでも選手ファーストの「現役ドラフト」案は、さすがに話が飛躍しすぎるとして、このようなケースもある。現代ではあまり訊かれないけれども、それこそ昭和の時代には『トレード志願』そんな文字が新聞紙上で頻繁に踊っていたものだ。
なにか届け出を提出したりとかではなく、もちろん非公式。ただ、そうした“訴えがけ”により、結果的に金銭を含めたトレードに結び付いた事例が幾度もある。様々な状況を鑑み、チームを出たいと思う選手は契約更改の場などで、とりあえず自分から話してみてはどうだろう。ウィンウィンのトレードという形であるなら、あるいは球団の方も考えてくれるかもしれない。‥もっとも、移籍を願っている選手が贔屓チームに何人もいるとは思いたくないが。
しかしながら、上のサンスポ記事である。島田誠のくだりは筆者も初めて知った。トレードを“志願”した理由は定かでないが、行った先がホークスなら、彼は生まれ故郷(の球団)に帰ることができたわけで、それが後の指導者の道にも繋がった。「成功例」といっていいだろう。
考えてみればあの時期、ファイターズでは功労者の古屋(→阪神)といい間柴(→ダイエー)といい、ファン目線からすると不可解なトレードが何件かあった。‥結局、彼らも“そういうこと”だったのだろうか。
島田誠の代わりに来た坂口千仙とは、懐かしい‥。千仙と書いて「ちせん」と読む。このオンリーワンな具合が好きな選手だった。
連載企画【私と平成ハム3】
◇躍進の理由(わけ)
近藤、土橋政権の間は4、5位が指定席。それが親分こと大沢啓二が監督に復帰した1993年‥‥終わってみれば首位・西武と1ゲーム差の2位と、突如の大躍進を遂げた。
前年オフはドラフト以外大した補強をしていなかったし、新外国人のリック・シューが比較的“アタリ”の助っ人ではあったが、これくらい。当然、前評判も芳しくなかった。なぜ短期間で急激に強くなったのか――
夏場にきてドームで西武に三タテ喰らわせたときは、私もその強さは「本物」だと感じた。大沢監督の選手「操縦法」がうまくいったと見る向きもあるなか、確かなコトは何ひとつ分からなかったのである。
ところが最近、一冊の書籍によって確信に近いそのヒントが得られた。善と悪 江夏豊ラストメッセージ (ダ・ヴィンチBOOKS)という本で、著者でもある江夏豊氏が、本の中でこう語っている。
93年、日本ハムで臨時コーチになったとき武田(一浩)と西崎(幸広)を徹底的に絞り上げた。この2人が頑張らないとどうしようもなかったから。特に武田にはきつく言ったね
なるほど‥‥たしかにそんなことがあった。
若干記憶が“おぼろげ”だったのはおそらく、キャンプ終了後に発覚した、他ならぬ江夏氏の不祥事が原因である。コーチを依頼した大沢監督ですら『断ってくれればよかった』と、後悔の弁を残していた。そのときの記憶を、私も無意識のうちに抹消しようとしていたのかもしれない。
しかし、臨時コーチとして、その時点である程度実績を積んでいた中堅クラスの武田・西崎両投手に対し“絞り上げる”ことを可能とさせた、江夏氏の「熱血指導」は、確かだった。前年(1992年)の成績と比較すると、それが一目瞭然なのである。
武田一浩:4勝9敗→10勝8敗 防御率3.87→3.33 完投数3→9
西崎幸広:6勝10敗→11勝9敗 防御率4.08→2.20 完投数9→17
同年二けた勝利をあげたのは、このふたりを含めて3投手‥。文字通り「先発の柱」として機能した。あらためて両投手の復活なくして、久々の上位進出はなし得なかった。キャンプ中のわずかな期間ながら、江夏氏がチームにもたらしてくれたものは、決して小さくはなかったのである。
そんな氏が以後、まだ球団に籍を置いての指導者経験がないというのは、いささか残念な想いもするし、もったいない気もする。現役時代は暴力も辞さなかったとされる「指導法」が、現代野球にマッチするのかどうかは分からない。が、ああみえて実はけっこう繊細なお方だ。そのときは時代に即した指導を施すのだろう。実現、するかどうか――