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【「ジャイアンツとのちがい」と「名将のオフレコ】エースのやきう日誌 《2019年1月29日版》

まもなく球春到来.......

 

 

リーグ4連覇を狙うカープ丸佳浩が流出、からの長野久義の加入。今オフ大型補強を敢行したジャイアンツ。久々セ・リーグに入った大物新人・根尾昂と今季からエースナンバーを背負う松坂大輔擁するドラゴンズ。ノムさん以来の捕手監督、矢野燿大率いるタイガースは‥‥等々、キャンプインまで、何かとセ界の様子が華やかだった。

 

優勝候補にも挙げられている巨人。その“なりふり構わず”の補強に対しては、不満を持っているOBが、ファンよりも多いご様子。なかにはこういった意見も見られた。

 

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‥‥なるほど。これは以前にも書いたような気がするが、このチームの補強の仕方はあいかわらずズレまくっているなと。岩隈、中島のベテラン勢ばかりの補強‥もそうだけれど、もっと本質的な問題。

たとえば昨オフは西武から野上亮磨を迎え入れた。‥野上に行くくらいなら、先発・抑え両方をこなせる増井浩俊(現オリックスを全力で獲得すべきではなかったか。仮に増井サイドから断られたのだとしても、バファローズとの“二択”であったなら、豊富なら資金力をバックに、決して太刀打ちもできない相手ではなかっただろう。そして彼はチームが求めていた通りに、オリックスのリリーフエースとして、期待通りの活躍をした。

‥むろん、すべて結果論だというのは解っている。澤村やマシソンが思うように抑えとして機能してくれない誤算もあった。しかし、こうして抑えが不在だなんのの記事を目にすると“ズレた”補強ぶりが浮き彫りとなるのも、確かであって。

 

そのバファローズからは今季、金子弌大がファイターズに加入した。起用法はキャンプ前の時点でまだ明言はされていないが、おそらく先発だろう。いずれにせよ後ろもオリックス時代に経験があり、両方いける。

そこで、ヤクルトからトレードで秋吉亮を獲得。彼はもっぱらリリーフ専門であり、ファイターズの狙いは明確。金子、新外国人の加入によって浮いた先発候補の高梨裕稔を引きかえにして、中継ぎ陣に、さらなる厚みをもたせた。実に「的確」である。見ている者にも解かりやすい。

近ごろ球団間で頻繁にトレードが交わされるからか、育成やらその補強の仕方をジャイアンツと比較した体の記事もよく見かける。どこも長々と綴られているが、結論はいたって簡単だ。ファイターズの補強は「的確」であり、ジャイアンツはそうでない‥。ただ、それに尽きる。

 

 

連載企画【私と平成ハム5】

 

◇昭和時代の恩恵

 

平成に入ってファイターズの監督を務めた、近藤‥土橋‥大沢‥上田利治までもが鬼籍に入った。30年という年月の重みを感じる。

 

前々回に記した1993年が、いちばんファイターズにとって優勝に近づいたシーズン。私が生まれて初めて目にした“強い日本ハム”だった。翌年は一転、最下位に沈みファンの前で「土下座」をした大沢監督。賛否はあったが、親分らしい幕引きではあった。

ところがである。「上田ハム」となったファイターズはその後、幾度も“優勝争い”を繰り広げるチームに。まさに、劇的な変貌を遂げた。

確かに、当時は西武がちょうど黄金期を終えたころではあったけれども、それまで「パ・リーグのお荷物」ごとくであった球団が、名将・ウエさんの手によって、ようやく“主役”になれたのである。“当事者”となっての初の【首位攻防】【首位キープ】【首位ターン】‥‥そんな、見出しが紙上に躍るたび、私自身もようやく「優勝体験」ができると、あのときは疑わずにいたのだが......

 

 

 初ゲンコツは西浦

BBM'99オールスターカード■レギュラーカード■A35/上田利治/日本ハム ≪ベースボールカード≫

(C)amazon

 

 

監督に就任した縁で、上田氏にまつわる様々な書物、データ集の類に目を通した。阪急ブレーブス時代にパ・リーグを三連覇し、日本シリーズの戦いにも激闘のすえ勝利している。そうした実績が氏を名将と謳わせている所以なのだろうが、筆者はある事実に気づく。

 

三連覇を達成したシーズン、つまり1975年からの3年間のパ・リーグは前後期制を採用ていた。前期と後期の優勝チームが、秋に行われたプレーオフによって年間の勝者、リーグ優勝チームを決めるのだ。‥ヘンな話、前期が最下位でも後期が1位だったら優勝のチャンスがあり、またその逆も然り。したがって、1位から3位までのチームに出場の権利が与えられる、現代のクライマックスシリーズとは在り方が根本的に異なる。

 はたしてどちらが真っ当なやり方であるのか、それは筆者には解らないけれども、上田氏にかんしては、当時のプレーオフの恩恵をモロに受けていたと見る。1975年は前期を制すも後期は、最下位。よって年間の勝率では近鉄を下回っている。翌1976年は前後期をともに制して文句なしの優勝。1977年は前期が1位で後期が2位‥‥。

これらの結果を知るにあたり、短期決戦に無類の強さを発揮したとの見方もあるし、一方で、年間を通じての王者の強さというものを、まだ携えていなかったとの見方もできる。とりわけ75年のケースは顕著であり‥‥。もちろん、前後期の変則的な制度であったし、戦い方も今とは異なるが、さすがに好んで試合に敗ける者もいないだろうプレーオフ廃止後は1984年に一度優勝)

 

と、時代が遡りすぎてしまった。

 

「上田ハム」の戦いぶりは、そのときの阪急によく似ていた。前半は走り、けれども後半に失速‥‥結果優勝を逃すといった、ファンにとってはいささか残酷なシーズンが多かったのだ。ちなみに昭和のプレーオフ制度に置き換えれば、1996年と1998年、ファイターズは「前期優勝」をしている。

あの当時なら、プレーオフに出場する権利を得て、あるいは日本シリーズにも出られていたかもしれない。球団史上に残る強力打線を形成するも、しかしウエさんが根差した野球は、残念ながら平成時代にマッチしなかった、と言わざるを得ない.......

(つづく)

 

 

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