センテンス・オータム

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【B級プロ野球ニュース&群馬発「甲子園の星」】エースのやきう日誌 《2019年2月12日版》

私、羽無野瑛須はかねてからお付き合いさせていただきました、女優の山田花子さんと........

 

 

って、ごめん。ちょっと一回やってみたかっただけw ブログには、こういった使い方もあるんだよなぁ。ダルビッシュなんか、お立ち台の上でコレをしたからね。かっこよすぎ!紗栄子でなくても惚れてまう。

ちっぽけな僕が皆さまにできる重大な“ご報告”って、何があるだろう‥‥。結婚・離婚の予定も特にないし、バレンタインデーで、見ず知らずのコから愛の告白も受けてねーし(笑)。何かは分からないが、乗り越えられなかった高い壁を乗り越えた暁、いずれ。

そして、当サイトの生みの親でもあります、ベッキー嬢さま。センテンススプリング!

‥貴女にもようやく春が訪れたそうで。元いだてん男の旦那の脚をしっかり‥‥ではなく、ハートをしっかり繋ぎとめて、くれぐれも「文春砲」にはお気を付けくださいませ。

 

 

◇容疑者、大嶺の転身

 

www.sanspo.com

 

偶然の産物だと思うが、上のニュース記事の大嶺翔太‥‥。これまった

 

悪そうな顔してんなぁ

 

野球界から退いた選手の愚行は、筆者もけっこう知っているけれど、大嶺ほど一軍でそこそこの成績を残していた彼のようなケースは、なかなか珍しい。人は、そんな短期間で変われないとはいえ、借金癖は野球を辞めても、相変わらずだったようで‥‥。

しかし、私の見方は仕事柄他人より特異で、200万円もの大金を貸せるライターとは、だいぶ限られてくるなと。稼げていて、なおかつこの分野プロ野球系統)に強いライターは多くないから。

‥おそらくその人物は、今回の件で逆にいい“ネタ”ができたと思って、ほくそ笑んでいるのではないか。少なくとも、自分ならそうだ。出版まではいかないまでも、週刊誌媒体ならまちがいなく需要はあるだろう。「落ちぶれた野球選手」は、まさに格好の題材。週刊誌の愛読者なんてのは大体、そういったもんに好んで食いつくのだから。センテンスオータム記者もまた然り、である(笑)

 

 

 あなたはあの夏、どこで何を――

ブラバン!甲子園 U-18

 

 

連載企画【私と平成ハム10】

 

◇甲子園の星

 

 

野球好きなら、誰もが一度は疑問を抱くであろう謎‥‥「甲子園の星」たちは、なぜプロで大成しないのか.......

 

いや、活躍している選手は多い。私がここで言っているのは甲子園でアイドル的な人気を誇り、てっぺん近くまで勝ち進んだ「投手」なのである。‥記憶に新しいところでは、斎藤佑樹。2018年終了現在、これまで活躍してきたとは確かに言い難いが、でも、彼のケースならまだ良い方で、一軍で10勝以上あげている。プロで1勝もあげられなかった投手、「甲子園の星」も、案外多くいるのだ。

甲子園であれだけ速い球を投げていた“元球児”がプロに入ったら、球速が140にも届かず、さらには「ノーコン病」を発症してしまう、実に奇妙な現象。巷ではよく指導者の方に問題があったとされているけれど、野球をやっている本人自体は変わらないのだ。

にもかかわらず、どうして“甲子園の”投球ができないのか‥‥ストライクひとつ取るのに苦労しているようなピッチャーでは、“あの頃は”なかっただろう?と、彼らを観ながら、時おり歯がゆい想いもするのである。

 

甲子園のスター、アイドル好きは何も今に始まったわけでなくて、ファイターズはその手を投手を昔から、わりと積極的に獲得していた。平成時代でいえば、1990年夏の甲子園優勝投手、天理高の南竜次。190センチを超える長身の投手だったが、7年間の在籍で0勝に終わる。

1991年に松商学園から入った上田佳範。彼は、同年春の選抜準優勝投手で、現在の吉田輝星らと同様、たいへん女性人気も高い選手だった。この上田も、プロでは勝てないまま、野手に転向している。故障もあったとはいえ「アイドル球児」たちの負の連鎖が続くのであった。

 

『またしても』そう、厭な予感がしたのは事実........

 

1999年夏の甲子園優勝投手、桐生第一高からドラフト1位で入団してきた正田樹(いつき)。聖地では速球とスローカーブとコンビネーションが冴えわたり、危なげなく頂点まで勝ち進んだと記憶している。正田も昨夏の「金農旋風」の吉田よろしく、一か月足らずの期間で一気に知名度を上げた投手。

出だしは苦労した。とりわけ2年目にあたる2001年は、登板数はわずか1試合(8月の近鉄戦)。しかもその内容が特別に悪くて、2イニングで6与四球‥‥。ローズのホームランによる2失点で済んだのが不思議に思うほど、惨めな姿だった。

 

ここで終わってしまうのが、それまでの‥ファイターズの「アイドル球児」だったが、正田はちがった。翌02年のシーズン初登板でプロ初完投勝利をあげたのを皮切りに、その後、八つも勝ち星を積み上げて、新人王にまでなった。この劇的すぎる変身を当時、誰が予想できただろうか。取り戻した自信。“あの夏”を彷彿とさせる、実に堂々とした投球ぶりであった。

 

 

‥‥待望の左腕エース誕生。‥‥前年のドライチ、實松一成との黄金バッテリー

 

勝手にいろいろ夢見させてもらった正田樹の栄華も、長くは続かなかった。けれども「アイドル球児」に付きまとってきた負の連鎖を、彼が断ち切ってくれたと見る向きもある。正田に続くようにして甲子園準優勝投手・ダルビッシュ有も、球団名が北海道日本ハムと改められたファイターズで、活躍をしてくれた。

 

入団から共に歩んできた指揮官・大島康徳の退団時、心から感謝の意を表していた正田。‥素直な気持ちだったろう。

 

 

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