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【90年代を代表する名監督「野村克也×高木守道」】エースのやきう日誌 《2020年1月21日版》

ヤクルト時代のノムさんは、たしかに特別だった。以後、どこの球団の監督になろうと、ヤクルトファンがノムさんを崇めたい気持ちはよく解かる。

 

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就任中、三度の日本一。その実績もさることながら「中身」がまた、“らしい”というか‥‥。なかでも1995年と1997年。両年に共通しているのは、巨人が大補強を敢行して新シーズンを迎えた点。しかも、前者は自軍から広沢克己ジャック・ハウエルを引き抜かれていた。前年まで4番と5番を打っていた男である。

で、代わりに他所から引っ張ってきたのが、オマリーとミューレン。阪神でも成績を残していたオマリーはともかく、ロッテをクビになったミューレンの、予想以上の活躍には野球通の誰もが驚いた。

97年はパ・リーグを代表するスラッガー清原和博石井浩郎を獲得した巨人に対し、広島を自由契約になった小早川毅彦を開幕からスタメンに据え、いきなり3本塁打。その余韻を残したまま、ヤクルトは一気に優勝まで突き進んだという印象だ。

この頃から野村再生工場という言葉がよく用いられるようになったけれど、もとはノムさんの「眼力」があってこそのものだろう。ミューレンといい小早川といい、他球団から見向きもされなかった選手を“補強”して、それが見事に戦力として機能したのだから。

とうにバブルは崩壊し、今よりも不況の色濃かった日本。それでもカネに物を言わせて、けっきょく思うような結果を残せなかった巨人‥。90年代、セ・リーグの盟主に昇りつめたのが、金満とはいえない「野村ヤクルト」だったという皮肉‥。なんとも爽快な時代であった。

 

 

合掌......

高木守道―プロも惚れ込むプロの技 (名球会comics)

 

 

◇実況、抜き?

 

90年代、その巨人が一度だけ輝いた年がある。「10.8決戦」のすえに優勝を飾った1994年だ。“相手側”の監督でもあった高木守道氏の、突然の訃報には、言葉を失くした。筆者は現役時代を観たことがない。したがって「高木監督」の思い出しか持ち合わせていないが、いちばん古い記憶は就任一年目、1992年のオフだ。

 

たまたま私の親友が関東圏の住まいでは珍しいドラゴンズファンで、同年、最下位に転落してしまった怒りの矛先を、もっぱら高木氏に向けていた(笑)。前任の星野さんは人気もあったから、よけいだったかもしれない。

監督に就任した際。高木氏自ら当時の主力選手、落合博満の家へ出向き、挨拶に行ったという話も、真摯な人となりを表しているようで好きなエピソード。

そしてもうひとつ、忘れがたきシーンが2013年‥‥70歳を過ぎて二度目の監督に就いたときだ。試合中、反抗的な態度をする井端弘和に“ブチ切れ”。鬼の形相で井端をベンチ奥まで追いかけて行く様子を、カメラにバッチリ撮られてしまった。ほんまもん「暴走老人」と揶揄される羽目に.....

 

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話変わって、先ほどジャック・ハウエルの名前が出て思い出した。1995年、NHKの野球中継にて「実況を設けない」実験的な試みがなされていたのを。‥つまり、このケースでいうなら解説者だけが自由に語っているスタンスである。

 

しかし、それが『分かりづらい!』と視聴者からの反応がたいへんに悪く「アナ抜き」はすぐに終わった。‥私の記憶が正しければ、たしか当日は星野仙一氏と森祇晶氏が担当。星野氏はともかく、森氏などは完全に「受け身」タイプである。自ら“しゃしゃり出る”タイプではない。おかげで件のハウエルに特大ホームランが飛び出したときも

 

シーン‥‥

 

おかげでお茶の間は、まったく盛り上がらない(苦笑)。これは森氏らがどうのより、企画したNHKが完全に悪い。巨人在籍時代に放ったハウエルの本塁打はわりと貴重だから、妙にインプレッシブな出来事だった。

 

 

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