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【決して「ON砲」と呼ばれなかった 主砲「プロ野球」ここまで言って委員会535】メランコリー親父のやきう日誌 《2025年6月10日版》

交流戦序盤は負け越しスタート‥。

新庄監督がとりあえずの「目標」としていたトータル11勝7敗とするには、これで残りを9勝3敗で乗り切らないといけない。かなり厳しくなってきた。

 

とりわけベイスターズ戦は悔しかった。打撃陣に「もう一押し」ができず、そこのトコロうまく攻めていたら、あるいは三つ取るのも可能な試合展開ではあった。‥まぁ、えてして敗けるときはそんなものなのだけれども。タイガース戦含め、セ・リーグでは比較的強力なチームと序盤戦に当たってしまったという部分で、前向きに捉えたい。

 

先週の長嶋茂雄氏逝去で各球場で試合前、黙とうがなされた。あれからさまざまな追悼番組等を観たが、長嶋氏のような野球人は、たしかに平成時代以降には居なかったかもしれない。

わりと近い選手といったら『燃える男の チャンスに強い キヨハラ』が応援歌の、清原和博だったか。抜群の勝負強さや大舞台に強い点においては清原はミスターにも引けを取らない。印象的なのはオリックス移籍後、交流戦で対戦した巨人ファンから大歓声で迎え入れられたシーン‥。球団の垣根も超えて、ファンから愛されていた、ある種「平成期」の象徴的存在。

 

それより昔に筆者が感心していたのは西武球団オーナーも務めていた、堤義明氏の、ビジョン。プロ入り後すぐさま清原に背番号「3」を与え、背番号「1」秋山幸二と昭和のONならぬ新「AK砲」は、いかにもV9巨人の平成版‥。‥あのような絶対的に強いチームを作りたかったであろうことがはた目にも分かった。

 

ファイターズが最後に優勝した2016年、まだ強かった頃‥。ネームの上では大谷翔平中田翔の3、4番も「ON砲」に間違いはなかったのだが、誰もそう呼ぼうとしなかったのは、恐れ多くてか、もしくはまだ相応しくなかったのか‥。 「O」はまだしも、後年「N」が辿ってきたプロ野球人生の軌跡をいま思うと、忖度抜きに並び称されないで正解だった。

 

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