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【愛の鎮魂歌(レクイエム)未完の冒険 その道半ばの独白「テレビ」ここまで言って委員会34】メランコリー親父のやきう日誌 《2026年3月12日版》

10日放送分の【正解の無いクイズ】が突きつけた、ある究極の問い。

『愛が具現化されたものは何ですか?』

 

‥その問いの余韻が消えぬうちに、筆者は迷うことなく一つの答えに辿り着いた。それは、かつて世紀末の混沌の中で放たれた一筋の光‥ ドラマ【世紀末の詩】である。

1998年。世界が未知の不安に揺れていたあの頃。竹野内豊と山崎努が演じる、人生の荒波に座礁した二人の男。彼らが「真実の愛」という実体のない蜃気楼を求め、彷徨い続けたあの物語が今、TVerという現代の窓を通じて再び、我々の前に現れた。

画面越しに再会したその美しくも残酷な「愛の定義」に触れた瞬間、筆者の中に押し寄せてきたのは、感動よりもむしろ、鋭い後悔に似た痛みだった。

ワシはなぜ、この物語が提示した「愛の正体」を知りながら、もっと血の通った、愛に満ちた人生を歩んでこなかったのか。‥そんな自問自答が、ジョン・レノンの【Love】の旋律と共に、夜の静寂を切り裂いていく――

 

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世紀末の詩

 

TVerの画面に映し出された第8話。そこには、クローンなる禁断の術で「失った愛」を繋ぎ止めようとする、歪で、しかしあまりに切実な親子がいた。

実を言えば、ワシにもその衝動は理解できる。失くした愛犬の温もり、あの潤んだ瞳‥。もしも今、クローン技術という「魔法」が目の前に差し出されたら、ワシは迷うことなく手を伸ばしてしまうのではないか。現実に、海の向こうではペットのクローンビジネスが、まるで失われた幸福を買い戻すかのように横行しているという。

だが、ドラマが突きつける問いは、その先に潜む深淵だ。「形」は再現できても、共に過ごした「記憶」や「魂の寄り添い」まで、複製できるのだろうか。

 

娘の姿をした「何か」を抱きしめる父親の姿は、エゴの鏡だ。愛とは、その喪失の痛みさえも抱えて生きることなのか。それとも、失ったものを力ずくで引き戻す執着さえも、一つの愛の形と呼ぶべきなのか。

 

形だけを模したクローンに、我々は「愛」を見出せるのか。その答えを拒むかのように、ジョン・レノンの掠れた歌声が重なる。

『Love is real,real is love』

愛とは真実であり、真実とは愛である。ジョンのこのあまりに純粋なトートロジー(同語反復)は、劇中のあの残酷な定義と共鳴し、筆者の胸をえぐる。

『愛とは恋のように思い出にはできず、失えば誰かを好きになる回路すら奪われるものだ』

クローンという「形」で外壁は修復しても、内側の「人を好きになる回路」までは繋ぎ直せない。なぜなら、愛とは生まれ持ったスペックではなく「長い時間をかけて魂が寄り添うこと」そのものだからだ。

科学が1秒で複製する肉体には、共に歩んだ雨の日の記憶も、言葉を交わさずとも通じ合ったあの静寂も宿ってはいない。失った回路を失ったまま、我々はそれでも、ジョンの歌声に縋り、「真実」という名の痛みを受け入れるしかないのではないか。

 

結局のところ、筆者は未だ「真実の愛」その聖域には辿り着けていない。なれ果ての男に過ぎないのかもしれない。かつてこの作品を観て震えた若き日の自分に対し、誇れるような愛の足跡を刻んでこれたかと言えば、答えは否だ。冒頭で吐露した「後悔」は、今も胸の深淵に澱のように沈んでいる。

 

しかし、【世紀末の詩】が最終話で残したメッセージが、再びワシの背中を叩く。

『愛とは冒険である』

愛を生まれ持ったものではなく、長い時間をかけて育む「後天的な奇跡」とするならば、ワシの人生という旅路もまた、まだ道半ばなのだ。クローンでは決して再現できない「魂の寄り添い」を求めて‥。失われた回路を、もう一度繋ぎ直すために‥。

 

ジョン・レノンの【Love】が静かにフェードアウトしていく夜。ワシはこの後悔を、次なる冒険への羅針盤に変えようと思う。真実の愛は、きっとまだ、この世界のどこかで自分に見つけられるのを待っているはずだから。

 

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