センテンス・オータム

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【開かれた門と投げ込まれる石「新庄流」デジタル時代の処世術「プロ野球」ここまで言って委員会605】メランコリー親父のやきう日誌 《2026年3月19日版》

ベネズエラ戦の熱狂が、静かな敗北感へと変わったあの日。侍ジャパンの右腕・伊藤大海のSNSは、戦場と化していた。

画面を埋め尽くすのは、顔も名も持たぬ者たちによる、あまりに一方的で、あまりに鋭利な言葉の礫だ。

 

SNSという「繋がるツール」を持つ有名人にとって、誹謗中傷はもはや避けられぬリスクといえる。‥かねがねワシは思っていた。伊藤大海のようなトッププロが、わざわざ一般人とデジタル上で「交流」するメリットなど、あるのだろうかと。

黙ってコメント欄を閉じ、耳を塞げばいい‥。それが最も賢明な自己防衛だ。にもかかわらず、彼は敢えて門を開き続ける。「それでもファンを信じる」という愚直なまでの心意気。

その無防備な誠実さが、皮肉にもSNSという無機質な暴力装置の中で、あまりに脆く、そして気高く浮き彫りになっていたのである。

 

確かに、今大会の伊藤大海は精彩を欠いていた。その事実は、彼自身が誰よりも痛感しているだろう。だが、荒れ狂う批判の声を聴きながら、筆者はかつてのエース、ダルビッシュ有の姿を思い出さずにはいられない。

2006年から2009年にかけて、ダルビッシュが歩んだ道は、正に「修羅の道」だった。プレーオフ(現CS)、日本シリーズ、アジアシリーズ、北京五輪、そしてWBC‥‥。オフの休息を返上し、日の丸とチームの命運を背負い続けた剛腕が2009年、ついに限界を迎える。満身創痍でマウンドに上がったあの日本シリーズの雄姿は、今もファンの脳裏に焼き付いている。

伊藤大海もまた、その系譜に連なる一人だ。プロ入りから5年。ペナントレースはもとより、五輪やWBCといった国際舞台でもフル稼働を強いられてきた。彼の右腕に蓄積された疲労は、我々の想像を遥かに超えているはずだ。

‥これがファイターズファンの贔屓目だという批判は、甘んじて受けよう。しかし、数多の「戦績」という動かぬ証拠を前にしてもなお、彼を一方的に断罪できる者などいるだろうか。筆者は、ただ一言『お疲れ様』と、その献身を労いたいのである。

 

当事者がSNSの荒波に呑まれる中、ふと、あの男の顔が浮かぶ。ファイターズの指揮官・新庄剛志。彼は選手たちに、むしろSNSでの発信を「奨励」しているという。

こうしたSNSの「負の側面」を目の当たりにすれば、通常は縮こまり、門を閉ざしたくなるのが人情だろう。だが、稀代のエンターテイナーは違う。罵詈雑言すらもスポットライトに変えてきた彼は、やめさせるどころか『逃げずに立ち向かえ』『もっと自分を出せ』そう、選手たちの背中をさらに強く押し出すに違いない。

「選手を守るのが監督」という古びた固定観念を、彼は鼻で笑うだろう。傷つく選手にはたまったものではないが、泥を被りながらも立ち上がる強さを教える‥。そんな「型破りな教育者」が、一人くらいいてもいいのではないか。

‥願わくば、新庄監督には、ただ戦場へ送り出すだけでなく、自らが培ってきた「誹謗中傷をエンタメに昇華させる処世術」を、惜しみなく伝授してほしい。それこそが、令和のプロ野球選手が身につけるべき、最強のバットであり、グラブなのだから。

 

(C)amazon 時おり「癒し」も送り届けるSNS模範生?

デコピンのとくべつないちにち

 

かくいう筆者は、その「戦場」から逃げたクチだ。厳密に言えば、誹謗中傷そのものより、それによって次の一行を書く意欲が削がれてしまう「自分」が、何より怖かったのだ。

新庄監督のように、火の中に飛び込んでダンスを踊れる者ばかりではない。だからこそ、ワシは自分の城(当サイト)を承認制という石壁で囲うことにした。悪意が入り込めぬと分かれば、野次馬はやってこない。至極単純だが、これが筆者なりの、SNSという濁流の中で「正気」を保つための 処世術である。

逃げることは、負けではない。伊藤大海のような「開かれた門」の気高さも、新庄剛志のような「不屈のエンターテイン」も、そしてワシのような「静かなる防衛」も、すべては表現を続けるための選択肢だ。

 

SNSを、ただの傷つけ合いの場で終わらせていけない。誰もが自分に合った「鎧」を纏い、明日もまた、気持ちよく言葉を紡げる場所であるために。

どうか、今夜の大海投手のスマホに石礫ではなく、一筋の温かな光が届いていることを切に願う。

 

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