少し前に失恋をした(といってもフラれたのではなく、告白するのを諦めただけ)。久々本気モードだったため、それ以降は誰にも恋をせず、心を「無」にして過ごしてきたが‥‥私も人間だ。精神のバランスを乱しそうになることも、時折ある。
たとえば、服屋でカップルが居合わせた時なんか辛かった。カレに似合いそうな服を傍らで色々チョィスしているカノジョ。‥自分にも営利目的でない「コーディネーター」がいてくれたらどんなにいいだろうと、狂気に満ちてくる。
与えるのも愛ならば、与えられるのも愛‥。やはり、恋愛も需要と供給によって成り立っていることを、あらためて気づかされるワンシーン。
話は変わるが、ブログについて。
どんなブログがこちらの「はてな」さんの方では人気があるのだろうと、たまぁに覗いてみる。「はてな」だけがそうなのかは解らないけれど、比較的人気があるのはネガティブなものばかりだ。不満と、ただ現状を嘆いているだけのニート‥。あるところでは会社をやめた、あそこが立たなくなったとかを延々綴っている人がいたり‥。
正直、読んでいてもまったく面白くない。‥それなら、なぜこういったブログが多くの人に読まれているのだろうと、私なりに分析してみると、読者は彼らを「観察」しているのだと思う。幼いころ夢中になった昆虫観察ごとくな、ヒトの生態観察。
自分よりも不幸だと思えるブロガーたちの生きざまを見て、ヒトは明日への活力としている‥‥。なんたらは蜜の味ともよく云うが、たしかに成功者のものよりはいいかもし知れない。ヘンな嫉妬もせずに、ピュアな気持ちでその人を応援したくもなる。これが人間の真理だろう。
‥ブログの在り方としては、アリだと感じる。ただ、「書き手」としてはどうなのかと、一方で不満も感じる。なぜなら、人気とされる彼らのブログには“救い”がないからだ。一縷の希望すら見出すことができない‥。今の混迷した世にあって、いちばん必要とされる要素は、そのわずかばかりの「希望」ではないか。
ブログではないが、いい見本が週刊新潮にある(センテンススプリングを捩っていながら、実は新潮派)。
坂上忍の「スジ論」と壇蜜の「だんだん蜜味」。物書きが本業ではない両者のエッセイを見比べてみてほしい。世に対してや、どこぞやの現場に対して不満と怒りをぶつけているだけの前者は、きわめて“ブログ的”な内容。一方の壇蜜は、しっかり読者を意識した内容になっている。‥そう、彼女の文章にはいつも“救い”があるのだ。
30半ばで独身女の哀しみを、文章の端々に散りばめていながら、読後はなぜか清々しい。たとえば、ポッキンアイス(2つに割って食すあのアイス)を、ついに一人で食べるように“なってしまった”日常の嘆きを綴っている 週刊新潮 2016年 10/13 号 [雑誌]の蜜味にて....
これは二人じゃなきゃなぁ‥‥という砦は崩壊した。この先も一人で何とかできる、神がくれた暗示だろうか。それとも、この先もお前はずーっと一人なんだよ、と悪魔がかけた呪いなのか。いや、神も悪魔が聞くがよい。私もポッキンアイスも悪くない。やはりこれも時代なのだろう
そして、このエッセイの結びはこう締められている....
‥結局一人なのだ。
一人でいるのも壇蜜の仕事なので、今後も一人道を極めていく所存だ
最後は、やはり前を向いている。これが壇蜜エッセイの素晴らしいところだ。現状に満足できなくとも、その中から小さな幸福をみつける‥みつけようと努力をする。
タレントとは到底思えぬ文章力もそうだが、彼女の発想の仕方にも、毎回感銘を受けている。ブロガー諸兄姉は“読めるブログ”として、参考になる部分は多いかと思う。
「パンドラの箱」のようなブログ、書き手を目指し、“ひとり”筆者も日々精進していく。