ひいき球団が記念すべき初優勝を遂げた年であり、1981年の記録集の類は、僕が子供のときから漁っていた。大人になってから、たまたま立ち寄った古書店で同年を扱った「レコードブック」を手に入れることができた幸運‥。あの歓びは忘れない。
日本シリーズ第4戦。好投していた木田勇を4回で降板させた大沢采配は、どうだったんだろう、あそこからシリーズの流れが変わったんじゃないか?‥などと、すべて結果論ではあるが、あらためて当時を振り返ることができて愉しかったり、悔しくなったり。
まぁ“身内ネタ”はいいだろう。万遍なく書を眺めていると、私でも知らない選手がたくさんいる。特に1、2年で消えることの多い、外国人選手がそれだ。
1981年だと日本一になった巨人にロイ・ホワイト、ある種社会現象?にもなったゲーリー・トマソンが、あまりに有名。ヤクルトには、まさかの大不振に陥ったチャーリー・マニエルがおり、広島にはガードナーとライトル‥。
同年、舌禍事件を起こした江本孟紀のいる阪神がけっこう面白くて、デード、名前がかわいいラム、ゴンザレス、オルト、4名もの外国人選手が在籍していた。‥といっても、当時の球界は「助っ人2人制」を採用していたため、4人が同時期にタイガースのユニフォームを着ていたことはない。不振や故障が理由でデードとゴンザレスは早々に日本を去っている。そら見たことも訊いたこともないわけだ。こと阪神は短命な外国人が多い、気がする。
傑作だったのが大洋ホエールズで、ピート・ラコックとジェームス・ピータース。前者は、いわゆる現役バリバリのメジャリーガーという触れ込みで、鳴り物入りでの入団。年俸もチーム1を誇り、契約の中に盛り込まれていたのか、拙守の彼を一軍で起用せざるを得ず、土井淳監督もずいぶんと苦悩したそうだ。
90試合の出場で打率.273、本塁打10。四球は41選んで出塁率が.359なのだから、まぁ及第点のようにも思えるが、とにかく守備で味方の足を引っ張ったそうだ。おまけに性格も超ワガママ。夫人の出産に立ち寄るため、欠場するのは、あの当時では異例であったとのこと‥。今では当たり前なんだし、家族思いに免じて、これくらい勘弁してあげてほしい気もするけれど、世間が‥いや、最下位独走していた大洋ファンがそれを許さなかったのだろう。
僕はますます彼に興味を抱いた。残された数少ない資料や写真で確認すると、実に甘いマスクの持ち主。まさにハリウッドスターのような色男だった。‥なるほど、彼の親戚には女優や著名な司会者がいるらしい。しかも、身長は190センチ強。当時の日本球界にあっては、かなりの大男に映ったはずだ。
ちなみに、野球ファンの間ではおなじみの名スカウト、牛込惟浩氏はラコック獲得にタッチしていないそう。ジェリー・ホワイトのときも同様で、活躍できなかった外国人に対しては「俺は関係ない」と言わんばかりの氏の姿勢が、いちいち見苦しい。事実ではあるのだろうが。
それからピータースの方。彼も成績はラコックと似たりよったりだったが、態度は良かったのだろう。辛うじて翌年も残留。あえなく二軍生活をしいられたが、チーム事情から、外野手の彼がなんとここで「投手」にも挑戦していたそうだ。いわゆる二刀流である。しかし、一軍での登板機会はないまま退団。ファームで一体どんな成績をあげていたのか、気になるところである。