センテンス・オータム

ディープ・マニアック・鋭く「DMS」 様々なアレについて... (シーズン中は野球ネタ多し)

トミー・クルーズ《Tommy Cruz》の近況など 1981 【パリーグ編】

前回記事でまったく触れなかった中日だが、助っ人としてスパイクスとコージ。ともに目立った活躍はできず、この年限りでお払い箱となった。だが、“第3の外国人扱い”だった、当時24の若武者・郭源治をシーズン途中から抜擢。以後長きにわたって戦力となったのだから、災い転じて何たらである。

 

両助っ人が機能せず、借金7の5位に沈んだにもかかわらず、翌1982年は巨人と激しいデッドヒートのすえ、リーグ優勝まで飾ってしまうのだから、プロ野球は面白い。今シーズンの中日だって何が起こるかわからない。当時クローズアップされていたのは、投手の「分業制」をいち早く球界に取り入れたといわれる、近藤マジックだ。

 

近藤貞夫監督。その功績もあってか「近藤人気」は抜群だった。1981年からの中日を皮切りに大洋、日ハムと、10年間で3球団もの監督の座に就いた。これは記録ではないのか。

近藤氏は、筆者にとっても馴染み深い存在。審判に抗議をする際、珍プレー集などでコミカルに描かれていた氏をご記憶している方も多いと思う。

‥日ハム監督時代は誠に不運だった。どうしようもない“貧打”に泣かされ、実質ウインタースのバット1本に頼らざるをえないような状況。3年続いた近藤政権は、すべてBクラス‥。それでも就任時、すでに60を越えた年齢ながら、一日も休むことなく、契約期間をまっとうしてくれた。

 

 

ホームランはコンスタントに打つけれど、勝負弱さも目についたウインタースには、正直不満もあった。だから、僕はあのとき何度こう思っただろうか。

 

「球団史上最強助っ人コンビ」がいてくれたらーー

 

今なお破られていないチーム本塁打記録を持つトニー・ソレイタと、ウインタース超えとなる6年もチームに在籍した、トミー・クルーズ。共に左打者だが、前者がパワーヒッターで後者が典型的な中距離ヒッタータイプ。バランスも非常によかった。1981年の初優勝も、両名の活躍があってこそ。

 

 

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 @1984カルビー

 

 

彼はペナント終盤に骨折して、同年の日本シリーズには出場していない。まして不人気パ・リーグということもあって、映像もほとんど残されていないのだが、1984年のオールスターで、彼の姿を確認できる。

江川卓が投じた、映像の中ではMaxとなる147キロの速球を豪快に空振りしていた。打席に向かうときの不敵な笑みは「お前の連続奪三振記録は俺が止めてやる」そんな意味が込められていたのかもしれない。なお、クルーズは現在台湾におり、後進の指導にあたっているそうだ。

 

 


Enthusiastic

 

 

クルーズの実弟が、1シーズンのみ巨人にいた(1983年)。そんな兄弟も、同時期にいた、ロッテの「リー兄弟」を前にしてはかすんでしまう。

あれだけ優秀な成績を残すふたりの兄弟を擁しながら‥前後にあの落合博満までいて、なぜロッテが一度も優勝できなかったのか、昔は不思議でならなかった。しかし、僕も大人になって「野球はピッチャーなのだ」という考えにいきつく。3割30本打つ選手が二名いるよりも、確実に二桁勝てる投手が二名いるチームの方が強いのだと。18勝の西本聖と、20勝をあげた江川卓のいた巨人が、それを実証している。

 

 

変わり種は南海ホークス。冒頭で中日・郭の話をしたけれど、1981年当時、南海にもふたりの台湾人選手が在籍。李来発(り・らいはつ)と高英傑(こう・えいけつ)。育成の目的も多分にあったと思うが、それぞれ4年で日本を後にしている。

 高英傑は同年に初本塁打(日本球界最初で最後)を放ち、「王貞治二世」との呼び声も高かったらしい。南海時代の彼を映像で確認したら、佇まいがたしかに王氏と似ている。バッティングに定評があった高が、1年目は投手としても登板していた。左投手不足だったチーム事情も背景にあったけれど、なんと彼は一軍で3勝もあげている。さぞ豊かな才能を持ち合わせていたのだろう。強いチームにいれば、郭同様に、高も日本で大選手になっていた可能性も、あながち否定できない。