センテンス・オータム

ディープ・マニアック・鋭く「DMS」 様々なアレについて... (シーズン中は野球ネタ多し)

【吉田輝「成功の法則」&酒井光次郎「恋女房」】エースのやきう日誌 《2019年1月22日版》

ファイターズの現二軍監督が荒木大輔だったというのも、また何かの因縁である……

 

 

本当に、アマチュア球界のスーパースターばかり獲ってくれるおかげで、「やきう」ネタは尽きることなく、むしろ、ここなどはオフシーズンの方がアクセス数が多いほど‥。私も、ずいぶんと“お零れ”にあずからせてもらっている。なのだが『朝から農業!金足農業!』のクボタの替え歌は、まったく流行らなかった(笑)

 

 

risingham.hatenadiary.com

 

 

先日、機会があって衣笠祥雄 最後のシーズン (角川新書)という本を読んだ。故山際淳司氏が、以前雑誌などに寄せていたものを再録した短編集で、特別、目新しさはなかったのだけれども、荒木大輔に触れていた項‥‥。プロ入り当初の苦闘ぶりや、荒木氏の人柄が窺えた点は、自分にとって有意義であった。

 

若干かぶった。最後の夏、池田高に大敗した早実の荒木と、決勝で大阪桐蔭にボコられた金農の吉田‥‥。スコアはそれぞれ「2-14」「2-13」。アイドル球児がドラフト1位でプロ入り。このふたりが数奇な巡りあわせによって今年、同じユニフォームを着る。

 

清宮の大先輩にあたる

甲子園の恋人たち ’82夏・荒木大輔と25人のライバルたち (別冊高校コース)

 

この荒木氏がいるファイターズに入団した吉田輝は、だいぶラッキーだったかもしれない。‥というのも、本によれば、まだ一軍レベルの力を有していなかったにもかかわらず「大輔人気」にあやかりたかったヤクルトは、彼を2年にもわたって“ただ”一軍に置き続けていたそうである。当然、活躍できるはずもなく、私もあらためて成績を追ってみたが、実際、散々たるものだった。

 

3年目のシーズンに、ようやく二軍でジックリ経験を積ませてもらい、後半ローテーション投手へと飛躍を遂げた。本項では巨人戦であげた初完投勝利の模様が描かれている。身の丈にあった「大ちゃん」の二軍生活は、短い期間ながらも、大きな転機となった。

そうした経緯を辿ってきた荒木氏のもと、また当時のヤクルトの二軍監督が内藤博文氏で、栗山英樹も若手時代に師事している。吉田輝の育成に際しては、一軍と二軍、どちらにいても万全な体制を敷いてくれるにちがいない。プロで成功すべく、きっと彼はファイターズ球団に導かれたのだ。全国の金農野球部ならびに輝星ファンは、おおいに期待してくれていい。

 

 

連載企画【私と平成ハム2】

 

◇1990年の怪

 

西崎幸広12勝、柴田保光12勝、武田一浩10勝、松浦宏明11勝。さらにはルーキーだった酒井光次郎までもが10勝。二桁勝利投手を5人も擁しながら、4位‥‥。Bクラスに甘んじた1990年。どこからどうみても“投手王国”であったはずなのに、優勝争いにも加われなかった。当時は西武と近鉄の「二強時代」。とはいえ、Aクラス入りも果たせぬとは。まったく前代未聞。「野球は投手(守り)」‥‥では、なかったのか?

 

個々でみると、柴田が同年4月にノーヒットノーランを達成。持ち前の安定感にいっそう拍車がかかってきた。エース・西崎は12勝13敗で、プロ4年目で初の負け越し。武田はリリーフを務めていた。救援投手で勝ち星が多いのは、一般的にあまりよろしくないとされているがWHIPは0.98、防御率が2.98で、安定はしていた。

“嬉しい誤算”だったのは、なんといっても新人の酒井近畿大。色白で小柄な左腕投手のKK世代。球威のなさを、ストレートとカーブのコンビネーション「投球術」でカバーした。同時期に星野伸之オリックスというよきお手本もあったが、それより“酒井限定捕手”、若菜嘉晴との酒井若菜コンビ」が冴えわたった(別にシャレではない。念のため)

 

ちなみに前述のノーヒットノーラン時。柴田は米崎薫臣近鉄という選手を最後、三振に仕留めて決めた。この打者の名前が、当時人気を博していた【アメリカ横断ウルトラクイズ】のクイズとして出題されていた。‥‥いくらなんでもマニアックすぎるだろう(笑)

 (つづく)

 

ブログランキング・にほんブログ村へ