筆者はよく夢をみる.......
他人よりみている方だと自分では思っていたが、実際、それほど大差はないのかもしれない。要はその夢の内容を覚えているか、いないのかの差であって。
私が夢の内容を覚えているのは、きちんとワケがある。枕元に手帳を用意しておき、どんな夢を見たのか、つぶさに書き留める。気になって仕方がないときは、そのままスマホで検索・確認。
夢とは、大抵は潜在的な意識によって映し出されるものが多い。が、そこに今の自分を成功に導く、あるいは警告を促すメッセージも、夢の中には隠されている‥‥と気づいている者は、まだ多くはいないだろう。そう、あなたがいつも見ている夢にも、何某の理由が在るのだ。
先日、こういった夢をみた。
母親が私のもとに訪ねてくる。突然の来訪に驚きながら、私はそれをごく自然に受け入れている。幾分不摂生な暮らしぶりを気遣ってか、さっそく食事の支度をし始める母は、無言だ。『来るなら来るとちゃんと言ってよ。部屋を片づけておけるから』 夢の中の私は、たしかそんなような軽口を叩いている。なにか久々に味わう、懐かしい家族の温もり......
夢の中であれ‥いや、夢の中なら亡くなった母親にも会える。それはしばらく余韻に浸るほどの、私にとって幸福な夢だった。
夢とは異なるが、震災で亡くしてしまった肉親の『亡霊を見た』という遺族が各地で多いと訊く。そして、そういった方々は口々にこう言うらしい。『幽霊でも、会えて嬉しかった』と。
解る気がする。本当に愛していた人ならば、夢の中でも、たとえ実体を持たない幽霊であってもいい。それでも、あの人に会いたい。会ってみたい、もう一度。
‥でもこの場合、厳密にいうなら“向こうが”あなたに会いにきてくれたといった方が正しい。これで今はもう会うことができない人が、我々の前に突如として現れる理由に、合点がいくだろう。夢や霊は、向こうにいる人が私たちに会いに来るための「手段」でもあるのだ。
『自分以外の家族は亡くなった』という現実を受け入れながらも、無人のはずの生家に行くと、かならず“現れてくれる”両親とペット。そこへ毎日のように通って、少年は「団らん」のときを思い出す‥【家族の肖像】。
父母だって自らが死んでいることには気付いている。そして、いつか訪れる別れの日も‥‥。我が子に向かって最後のメッセージを送る、父親のシーンが切ない。父親役は、現在ビールのCMなどに出演中の、若き日の本田博太郎。劇中、家族によって唄われていた歌が、私の脳内にいつまでも木霊していた。
季節は秋を迎え、フジ系人気番組【世にも奇妙な物語】にまつわるエピソードネタを、そろそろ再開。創作なしのすべて実体験に基づく奇妙なワールドを、今後不定期でお送りしていきたい。