年末ジャンボ宝くじの購入期限が迫ってきた.....
このタイミングで、毎年、僕は昨年度のクジを開封する。つまり、約一年ものあいだ、宝くじを“眠らせていた”ことになるのだが、なぜそんなコトをするか?
スバリ365日間、夢を見続けていられるからだ
開封前の宝くじが、いわば「お守り」代わり。道中、何か困難にぶちあたったとき『俺にはコレがある』『今に見てろ』と自分に言い聞かせ、近い将来の億万長者を夢見る‥。大抵の人は、大晦日の当選発表の日に確認してしまうのだろうが、それは非常に勿体ない。愉しい夢なら長くみていたい。違うか?笑
とはいえ、僕自身にとってそんな大げさなものでなく、一種の「ギャンブル」である。当たった金を、そのまま次の宝くじの購入資金に充てるだけ。結果、まずまず高額当選を果たしたが(いくらかは嫌味になるから差し控えるが、相変わらず持っているな俺、という感じ?)、その程度の金では何をすることもできなく、半分以上の金を、次のジャンボに注ぎこんだ。その結果が分かるのは、また来年の今ごろである。
こういったものの類は「欲がない者」の方が当てやすい。‥現に僕がそうだし、お金に余裕のありそうなお年寄りやマダムたちの多くが更なる幸運を手にしているのも、このためだと思われる。
しかしながら、クジを買っている時点で「欲を捨てろ」というのも、いささか無理な話で、それならどうしたらいいかというと、自分のように“眠らせておく”ことをお勧めする。なぜなら、幸運は、忘れた頃にやってくるーー
なんにせよ「執着心」は持たないことだ。僕も“お守り”にはしているが『どうしても当てたい!』と、心の底から願っているふうでもない。この時期になって、思いだしたように当選番号を確認したら、当たっていた‥‥そんなことが一度や二度ではない。幸運の摂理、法則を知っていれば、自然とこちらへ引き寄せることができる。
さて、いつから僕は冷めた人間になってしまったのだろう(笑)
たぶん、金で買えないものを知ってしまった、そのときから。好きなものを好きなときに食べ、なおかつ家とか車とかの物欲も自分にはなく、それはそれで幸せなのであるが、あるとき、ふと思った。
人生に「サプライズ」がないなと‥
好きなものは食べられるが、これは自らの意志によるもの。美味しく感じられるのは当然なワケで、たとえば誰かが作ってくれた料理を『見た目以上に美味しいじゃん!』的な感動は、そこでしか得られない。タイミングの面でもそう。自分がお腹が減っているだろうなと見越したうえで用意してくれた、母親の愛情にも似た料理には、どんな名店の料理でも勝てない。‥自分には「サプライズ」が起こりえないのだ。
料理を喩えにしたが、この類はすべて、金では手に入れられない。今のところ何不自由なく暮らしてはいるが、幾許かの虚しさがあるのは、おそらくこのためだろう。最近飯を驕る機会も多い僕は、逆にご馳走してもらうことは、ほとんどない。年の功もあるのだろうが、そんなの不平等だ。与えるだけではない、ときには予想外なカタチで与えてももらう「人生のサプライズ」が、僕も欲しい。‥はたして、これは贅沢なのか(笑)