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【いま明かされる「レジェンドOB」ハムにいた頃―「プロ野球」ここまで言って委員会451】メランコリー親父のやきう日誌 《2024年7月09日版》

直近10試合で1勝8敗1分け‥。真っ逆さまに5位転落‥‥。

月(ツキ)が変わっても流れは好転せず、ファイターズファンにとって悪夢のような2週間だった。

 

本体には、あまり語るべき事柄もないということで(苦笑)、今記事は別視点。2日の千葉ロッテ戦は「50周年シリーズ」と銘打たれ、球団レジェンドOBがエスコンフィールドに集った。今さらあらためて紹介するまでもない有名な方々だけれども、ちょっとしたトリビアも交えながら、彼らにまつわるエピソードに触れてみたいと思う。

 

記念すべきファイターズ球団初勝利をあげた、三浦政基氏。ここまで行くと筆者の記憶も乏しい‥というか、まだ生まれてもいないわけだけれど、南海移籍後の話がおもしろい。ファイターズ戦で達成した「0球セーブ」

これ登板直後の、打者に投じる前。自らの牽制で走者を刺したアウトなんだよね。しかもその走者というのが、わざわざ「代走」として出場した選手で‥‥。現代でもたま~に見かける『おまえ、何のために出て行った!』的なやつ(笑)。盗塁で刺されてとかならまだしも、牽制アウトで試合終了―― はないわな。

 

長らくファイターズで4番を務めていた、柏原純一氏。巨人との日本シリーズ、1981年「後楽園決戦」の話をされていたが、できたら北海道移転前に、もう一度‥ 観てみたかったね。

最大のチャンスは1996年。巨人がかの有名な「メークミラクル」で逆転V。逆にファイターズは前半戦首位で駆け抜けるも、後半に息切れ。オリックスに優勝をさらわれた。そんな経緯があったものだから、同年巨人へFA移籍した河野博文(ゲンちゃん)が羨望の的だった。

 

(C)amazon シリーズではイチローに被弾

1996bbm 日本シリーズセット レギュラーカード No.S39 河野博文

 

トレンディエース」として名を馳せた、西崎幸広氏。けっこうYouTube等で自身もネタにされている、Fs退団の仕方が良くなかったのもあって、どうかと思っていたら意外や、ファイターズ球団とその後も友好的な関係を築いているみたい(笑)。‥個人的にも最初に知ったファイターズ発の「スター」は西崎氏だったし、今後もOBとしてチームをアピールしていってほしいよね。

 

西崎氏と同時代に活躍した、田中幸雄氏。今季GAORAで解説を務めた試合(一軍)では必ずといっていいほど惨敗を喫し、自然と田中氏のトーンも落ち気味w

ネットナンパだなんだので、今は野球選手も週刊誌で叩かれる時代。‥弱いながらも、古来よりこういった問題行動を起こす選手が、ファイターズにはほとんどいなかったのは、誇り? 不人気チームゆえ『表に出てこなかっただけ』と言われてしまえばそれまでだが、どう想像を張り巡らせても現役時代、主砲として鳴らした田中氏がナンパに興じたりキャバクラに足繫く通う姿は思い浮かばん(笑)

 

「ガッツ」こと 小笠原道大氏。今年から週刊ベースボール誌上で連載を持ち、そこで本人も記していたが、寡黙そうな見かけとちがい、わりと饒舌‥なのだとかw。極めて「投高打低」の現代にあって、かつてのような高打率を記録し続けられたのか‥と、氏の全盛期を知った野球ファンは夢想する。

 

まだ記憶に新しい 田中賢介氏。連盟表彰まであと一歩、通算の安打数が「1499」でとどまってしまったのは、じゃっかん今でも悔やまれる(笑)

が、田中賢氏にはファイターズ入団時から特別な思い入れがあり、実、ドラフトで球団が久々にクジを引き当てた「金の卵」だったんだよね(2位)。したがって、もうそれだけでテンション上がりまくりw。レギュラー定着まで時間はかかったけれど、同じく苦労人の森本稀哲との1、2番コンビには多大なロマンがあった。クジを引いた大島康徳(当時の監督)と同じ道を辿るように、現在はNHKの野球解説者としても活躍中だ。

 

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