センテンス・オータム

ディープ・マニアック・鋭く「DMS」 様々なアレについて... (シーズン中は野球ネタ多し)

背番号「0」のベストショット

学生時代、富士ゼロックスでアルバイトをしていた。

 

 

機密性の高さ故、詳しい業務内容はここに書けないのだが、単発の仕事が年に数度。時給も良かったし、けっこうおいしい事務の仕事だった。

そこの社員に私は気に入られたようで、仕事がある度に呼ばれて現場に赴いたのだが、当時はまだパソコンをかじった程度でしかなく、ずいぶんと迷惑をかけたと思う。

 

仕事よりも印象に残っているのは目をかけてくれた、その富士ゼロの社員である。40歳前後と思しき彼が、長嶋清幸とまるで瓜二つだったのだ。

髭が濃く、体毛も濃そうな感じで、頭髪は、ちょっと薄い‥。背は高くなく「小太り」といった体型。何より細い目がそっくりだった。彼に一度、赤い帽子を被せてみたかった。

 

‥こんな発想をしたのは、おそらく私くらいだったろう。それでなくとも、野球でナガシマといったら、世間一般的にはシゲオだ。しかし、キヨユキの名も燦然と球史に刻まれているの知っている方が、今、どれくらいいるのだろう。

 

◇背番号「0」を身にまとった、球界初の選手

 

おもえば、ズングリとした彼の体型に、丸っこい「0」番はよく似合っていた。在籍していたカープでは他に、木村拓也が長年着用していたこともあり、馴染みある番号なのではないか。

古葉監督と阿南監督のときの強豪時代のカープで打線の中軸を担い、チャンスにめっぽう強かった印象。その豪打をリアルタイムで観た記憶こそないが、打率は毎年3割近くマークし、ホームランも二桁放っている成績を鑑みれば、現代でいう丸佳浩のようなタイプだったと推測できる(ともに左打ちの外野手)

 

 

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@1986カルビー

 

 

長嶋清幸以後のゼロ戦は、巨人の川相昌弘が有名か。最初が「60」番で次が「0」。選手生活晩年には「6」を与えてもらった、バント職人。背番号で物語がつくれそうな選手である。

変わり種は日本ハム。ちなみに同球団では2006年の古城茂之以降、空き番が続いているが、当初はなんとピッチャーに「0」を充てていた。木田勇との交換で大洋からやってきた大畑徹が初代。そして大畑退団後に引き継いだ松浦宏明が、いきなり最多勝を獲得した。

後年は中継ぎとしても活躍。なぜか、そのタイミングで背番号「11」に変更した途端、横浜にトレードされるという皮肉ぶりだった。

 

 

だが、私の中で「0」は、やはり長嶋清幸が一番手だ。お世話になった仕事先の上司に似ていたのもあるけれど、彼ほど「0」が絵になる男はいない。これぞ“元祖”の威光といったところだろうか。現役時代の元祖の体型と、若干かぶっても見える上本崇司は、良い番号をもらったと思う。